僕が教職大学院で不登校になったけど案外楽だったという話
私は教職大学院に通う2年生、いわゆるM2(ストレートマスター2年)です。
ふとしたことがきっかけで不登校になりました。
学校にいくのはゼミや提出の必要があるときだけ。
基本的に必要となる荷物は払い下げて、今はほとんど使わないような荷物(アンケートの結果の紙なんてのは重くて処分に困る)だけがロッカーに眠っている。
本当はこんなはずではなかったのだ。しっかりと講義は登録してあり、途中まで受けていたのだが、後期の途中になってやっぱりダメだということで不登校の道を選んだ。
悲劇のヒロインになるつもりはないが、正直そんな自分に酔っていたのかもしれない。
この選択は案外気持ち的に楽で今はのびのびとできている。
そんな私の話を聞いていってください。
1 なぜ不登校になったのか
私は教職大学院に通う学生だ。
もちろん学校の先生になるために日々勉強をしている。
「教師とはこうあるべきだ」という考え方が嫌いで、自分を成長させるために入学したのだが、どうしても様々な「教師論」に触れるたびに嫌気がさしてしまう。
こんなことをいっているものだからもちろん教員採用試験に受かるはずもなく、2年目、回数にして4回目と5回目の試験がやってきたのだ。
4回目の試験は普通にテストと面接があり、テストは解けるのだが、面接で難ありという自分の特徴通りに見事に落ちた。
これは仕方のないことなのでそんなに落ち込んでいるわけでもないのだ。
問題は5回目の試験だった。
この試験はいわゆる推薦というやつで、筆記のテストを免除された。
嬉しかった。推薦をもらって落ちるなんてことはそうないからだ。
自治体と大学との関係もあるし、何より教授が自分をよく描いてくれることは命名白白だから、もはやその自治体にいくつもりで多くの準備を重ねていた。
立地や治安、物価や交通手段などあらゆることを勉強し、自治体が掲げる教育理念についても熟知して面接に臨んだ。
もちろん今年はコロナの影響もあったのでいくことに否定的な人々もいたが、背に腹は変えられない。意気揚々と面接に臨んだのだった。
これについては以前少し詳しく描いた記事があるのでそちらも参照していただきたい。
結果は不合格。
それから何も信じられなくなった私は二週間の放浪の旅に出たのだった。
2 二週間の放浪と回復の旅へ
大学院も大学である。3回までは休んでも単位に影響はない。
そこで私は精神的に病んでしまったことを理由にすべての授業とゼミをストップし、二週間遊び呆けることにした。
この二週間で酒は呑みあさり、旅にも出た。
本当に廃人のような日々を過ごすことになった。
なんでここまで病んでしまったのか、今考えれば、
自分以外の院生がすべて合格を手にしていたこと、そして優秀な人々に囲まれていることが自分の惨めさを助長してしまうことが原因だったのだろう。
そうした落ち込んだ気持ちをなんとか打開すべく私は日々をフロウ人のように朝まで飲んで騒いで過ごしたのだった。
3 選択。そのまま不登校の道へ。
二週間が終わり、そのまま実習が始まった。
三週間にわたる集中的な小学校での実習で、自分がそこにいていいのかと本気で悩んでしまった。
つまり、自分の否定、軽い鬱になってしまったのだ。
子どもの前では元気でいなければならない。
しかし1人になると元気にはなれない、しかも朝が早いから寝れない。
こんな日々が長く続くと人間はよりダメになるわけで、もう立ち直ることなんてできなかった。
私は実習を終えた後、不登校になる決断をした。
ただし、不登校になったとはいえ、何もせずに過ごすのは癪に障る。
そこである決断をして不登校になった。そのおかげで私は元気を取り戻すことになる。
4 お金をもらう先生へと転身
私がした決断、それは講師になることだった。
つまり、お金をもらって教育をする人になることだ。
今まで、合格という評価、そして金銭面での評価など、あらゆる評価を受けずにきてしまった。それが自分をダメにしていたのだと気づいた。
言葉で「助かってるよ」「ありがとう」と言われても社会で生きていくことはできない。
ボランティアで生きていくことはできないのだ。
そういった意味で社会的な評価を受けることを目標に考えたところ、
自分には「資格」があった。
教員免許だ。
これを生かさないわけにはいかない。
そこで現在、講師として働きながら自尊心の向上に努めている。
少しずつ元気にもなってきた。
これが今の私である。
最後に感情的なことを書いて終わりたいと思う。
5 環境がダメなら変えればいいという救いの言葉
私にとってダメだったのは環境だった。
今でも大学院に身を置いたのは半分ハズレだったと思っている。
この環境は私にはあっていなかったのだ。少なくとも優秀な教員がいるこの場は私には適していなかった。
だから「環境を変えた」。
実際の現場で、本気で子供と向き合っている生の先生の姿を見ることができたのは救いだった。
いくら大学院に来ている優秀な先生とはいっても大学院では子供に接する姿を見ることはできない。
自分に必要だったのは「子供と接する大人の姿を見ること」だったのだと環境を変えたことで気づかされた。
これはどの分野でも同じで、向いていなければ環境を変えればいい。
そのためには不登校になっても構いはしない。
ただし自分が何ができる人で、何だったら立ち直れるかをしっかりと見つめ直すことが大切だ。
この文章も、修士論文の提出にきた大学院の、人がこない部屋で執筆している。まだ大学院の人々とまともに会話をすることはできないが、いずれ、少しでも分かり合える日が来れば嬉しく思う。
さてこの後修士論文を提出して、また明日から子どものために授業をしていきたいと思う。
それではみなさま。各が持てる力を、適した場所で発揮できるように頑張りましょう。